黒田官兵衛の逸話・名言で分かる性格4選


黒田官兵衛は、1546年に姫路で生まれ、九州・福岡藩52万石の礎を築き、「天才軍師」と言われていました。

ドラマなどの影響もあり、黒田官兵衛という名前が有名ですが、歴史好きな人にとっては、剃髪後の号をとった黒田如水という名でも有名であります。

豊臣秀吉の側近として有能であったとされる黒田官兵衛ですが、そんな黒田官兵衛の逸話・名言から、どのような性格であったのかという分部に関して、この記事では着目していきます。

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①逸話・名言から読み解く

大将たる人は、威厳というものがなくては、万人を抑えることができぬ。さりながら、悪く心得て、威張ってみせ、下を抑え込もうとするのは、かえって大きな害である。

知水は出家剃髪しての名である。

信長、秀吉、家康の三英雄の時代に、自らもまた天下人になる夢を抱いた武将だった。

文武両道に秀でた逸材で、天下を取れる器量はあったが、その大胆にして緻密、明断な頭脳が、逆に秀吉や家康の警戒心をあおって、「恐るべき策士家」「警戒すべき野心家」と見られて、遠ざけられ、天下を狙う機会を失った。

黒田官兵衛はしかし、誠意と正義に満ちた武将だったといえます。

天正六年(一五七八年)に、有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重が信長に背き、秀吉のもとにあった黒田官兵衛は、村重と旧知の仲だったことから単身、有岡城に乗り込んで説得したが、逆に勾留されて牢屋にぶち込まれた。

翌年、有岡城を信長が攻略して、黒田官兵衛は劣悪な環境の牢から救出された。

だが膝をやられて、生涯、足を引きずるようになってしまいました。

この事件は黒田官兵衛が信念の人であり、強い意志と正義感がある性格であることを示した。

以後黒田官兵衛は秀吉の軍師として、秀吉の天下取りをそばで支え、また指南し、彼は政権の中枢にあって、「見るべきものを見つくした」武将であった。

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②逸話・名言から読み解く

金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである。

黒田官兵衛の性格はケチで有名であり、常に倹約をして無益な出費を嫌って、わずかな支払いも渋った。

そんな黒田官兵衛は、家臣に自分の使ったものを安く売ったことでも有名ですが、黒田官兵衛が家臣に自分の使ったものを安く売ったのは、実はケチだったからではなかった。

物をもらうよりは、買った方が嬉しいし、さらに物をもらわなかった者は恨みを抱くが、安く払い下げれば不公平にならない。

そうした家臣の微妙な心理にまで、神経を使った黒田官兵衛の配慮だったのです。

そして黒田官兵衛の倹約した金は、貧しい者に恵み、窮する者を救う時に使った。

しかも与える時は惜しみなく出費し、その額の多さを諌める家臣もいました。

黒田官兵衛が「無用の出費を嫌ったのは、与えるべき者に思うように金銀をほどこし、使いたい時に使うためだった」といって、冒頭のように言葉を結んだ。

つまり蓄えるための蓄えではなく、使うための蓄えだというのである。

 

③逸話・名言から読み解く

神の罰より主君の罰を恐れよ。主君の罰より臣下百姓の罰を恐れよ。なぜならば、神の罰は祈れば免れる。主君の罰はわび言をもって謝ればよい。ただ臣下百姓に疎まれては、必ず国家を失うゆえ、祈ってもわびても、その罰は免れることはできぬ。

黒田官兵衛の嫡子は長政であり、この父と子は共に優れた資質を持つ武将だったが、大きな違いがあった。

『武功雑記』に、長政がいつも戦場では陣頭に立って指揮しているので、重臣たちは万が一、戦死することがあっては大変と危慎したとある。

これに黒田官兵衛は「長政は先障をきって働くのがいい。わしのように後方で指揮していては、兵たちが従わず、戦いには勝てない」といったとある。

長政は実戦を通し、勝ち戦を重ねることで、勇将と賛美される努力型の武将だった。

『若話記』に黒田官兵衛は、「人には得手、不得手がある。わしは若い頃から万槍を振るって敵と渡り合うのは不得意だった。采配を振るい、一度に多くの敵を討ち取るのは得手だった」と語ったとある。

この天才黒田官兵衛は戦略に長けているだけに、領国経営の手腕は見事で、臣下、領民の心をつかむ術も心得ていた。

ところが黒田官兵衛から見て、息子長政には不安があった。

息子長政が筑前国という大国をもらって気掛かりなのは、優れた武将であっても、親の自分に甘えて、為政者としての経験がなく、未熟に映ることだった。

この名言はそういう黒田官兵衛の親心から、すでに功なり名を遂げた長政に発せられた言葉である。

黒田官兵衛は国を治めるには普通の人と同じ心得では駄目で、政道に私を持ち込んではならず、我が身の行儀作法を乱さずに、万民の手本にならなければならないといい、そして国家は武のみで治まるものではなく、文との両方がうまくかみあって安定すると訓戒している。

 

④逸話・名言から読み解く

これはお前のためだ。乱心ではない。

黒田官兵衛は慶長九年(一六0四年)、病に倒れた。

死ぬ三十日ぐらい前から、家臣を罵ったり、辱めたりするようになり、皆は「さては大殿さまのご乱心でござる」と大騒ぎになった。

そんな黒田官兵衛を、「これをおいさめできるのは筑前守殿しかおられまい」と、老臣たちは筑前守殿つまり黒田官兵衛の嫡子長政に注進した。

さっそく長政は枕元に行って、これを諌めた。

すると黒田官兵衛は「もっと耳を近づけよ」といって、小声で冒頭のようにささやいたのだ。

黒田官兵衛はさらに「わしが家臣たちに疎まれて、早く筑前守殿の代になってくれと思わせるためだ」といったのだ。

死ぬ瞬間まで人を欺き続けるとは、黒田官兵衛はさすがは天性の智謀家・策略家などと呼ばれるだけのことはある。

黒田官兵衛は「腹を切って死んでも、わしに従って地獄・極楽を一緒に駆け巡るわけではあるまい。優れた士は一人でも多く命を長らえて、わしが大切に思う我が子に譲りたい」といって、家臣の殉死を禁じた。

また黒田官兵衛は、長政と家老の栗山普助(靴付加) の二人だけを枕辺に呼んび、黒田官兵衛が戦場を駆け巡った甲胃を前に「これは我が家の家宝の合子の胃である。本来なら長政に譲るべきものだが、あえて善助に与えよう。死後はこれをわしと心得よ。善助は長政をわが子と思い指導教育せよ。長政は善助を若返ったわしと思い、善助の諌言には背いてはならぬ」と言い渡した。

黒田官兵衛は長政にかねてから「我の死は、三月二十日の辰の刻(午前八時)である」と予言し、さらに「葬儀には金を掛けてはならぬ。仏事にも一生懸命になってはならぬ。ただ国を治め、民を安んずること、これがわしの最も好む志であり、それに専念することが、わしへの何よりの孝養である」といった。

黒田官兵衛は予言した同日同時刻に息を引き取り、黒田官兵衛は病中で「思ひおく言の葉なくてつひに行く道は迷はじなるにまかせて」と辞世の歌を吟じた。

知水五十九歳、長政は三十七歳であった。

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