武田信玄の性格や病気と最期の豆知識4選


武田信玄といえば、最強や最期の真相についていろいろとネット上で物議をかまし、非常に有能な男であったというイメージが強いですが、あなたは武田信玄のどういった部分が有能であったのかを知っているでしょうか。

また、武田信玄は性格に関してもいろいろな情報が流れていますが、これらは軍学書や名言から、武田信玄がどんな人であったのかという事実が見えてきます。

今回の記事では、そんな武田信玄の性格や病気と最期の豆知識に関して、4つの項目にまとめています。

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廉潔で思いやりのある性格

武田信玄の名言その1

大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である

武田信玄は幼少の時に五山僧の岐秀元伯を師として漢学・国学を学び、国主になってからも、名僧を甲斐に招いてその講義を聞いた。

また読書を愛して、『源氏物語』といった文学から、兵法書はもちろん、諸子百家の書をも読破し、高い教養を身につけた。

それだけに、信玄は武に秀でた勇将であるだけでなく、自ら帝王学を身につけた博識の武将であった。

よって主君として、家臣や領民を思いやる気持ちも人一倍強かった。

また、戦いを国境の外に展開した理由の一つに、国内でやれば田畑は荒らされ、領民が困るということがあった。

武将としての信玄は、軍法を重視したが、軍法の基本は大将の指揮が的確なことにあるとして、大将の心得を説いている。

それはまず、大将は人を正しく評価して、奉公人の得意とするところを知って、適所に人を任ずることが重要であるとする。

手柄を立てた武士への恩賞も大中小に応じてきちんと与え、ねぎらいの言葉も、手柄に応じて、大将自らが行えという。

ただしいつもニコニコしていてはダメであり、怒る場合には怒れという。

そうしなければ奉公人は油断し、油断すれば思慮のある者も出島に背き、上下ともに損失をこうむる。

信玄は分国法として『甲州法度之次第』を、二十七歳の天文十六年に制定し、この法度の最後に「晴信(信玄のこと)が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書)をもって申すべし。時と場合によって自らその覚悟をする」という一項目がある。

法を家臣や領民だけに押しつけるのではなく、国主である自分もまた、その束縛を受けることを、明文化して世間に告知したのである。

自分が違反すれば、自らをも罰するとしたこの法度に、信玄の廉潔な政治姿勢と性格を見ることができるでしょう。

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思慮深い性格で知将だった

武田信玄の名言その2

戦いは五分の勝ちをもって上となし、七分を中とし、十を下とす

武田信玄は戦国大名として、ずば抜けて思慮が深い性格で有名であり、卓越した政治家であるとみなされてきた。

彼ほど日本の武将で、古代中国の「孫子」の兵法を徹底的に学び、実践した武将はいないとされる。

『孫子』の兵法は単なる戦闘技術を説くのではなく、組織経営、戦略、人間の起用法など、哲学の領域にまで高められた軍学書である。

『孫子』の兵法の理想は「戦わずして勝つ」ことだった。

よって信玄の戦法は、川中島での永禄四年の死闘があったが、本来こうした会戦を好まず、外交戦を主体とした。

確かな情報をもとに、相手の欲を巧みに利用して杭こちらに引き入れる戦略が多かった。

信玄はまたこうもいっている。

「戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎではならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である」

さらに信玄は、敵には強敵、大敵、若敵、小敵、弱敵の五種類があるともいう。

強敵とは勇猛で判断力優れた主君のもと、立派な家老がいて、忠誠心を抱く侍大将がいる敵。

特に若敵は意外に目を見張るような戦いをして、手強いことがあり、また小敵も何を仕掛けてくるかわからないので、油断は禁物だといっている。

 

人の和を大事にする性格

武田信玄の名言その3

人は城 人は石垣 人は堀 情げは味方 あだは敵なり

甲府市にある武田信玄の居城・躑躅ヶ崎館はまこと小さいことで有名でした。

『甲陽軍鑑』によれば、家老衆が寄り集まって、城があまりに小さく、粗末すぎると意見したことが記される。

これに信玄は「その意見はもっともだが、国持ちが城にこもって運を聞いたことは稀であろう」と述べたという。

この信玄の思いを最もよく物語るのが、「信玄公御歌」とされるものである。

城をわざわざ築く必要はなく、人の和こそが城なのだ。

「人はその和が石垣ともなり、堀ともなる。情けをもって接すれば、人は味方になってくれる。しかし逆に冷たくあしらえば、敵になってしまう。領国経営の基本を指し示す歌といえる。」

これは伊達政宗も同じく、「城を築くより、境界まで出て戦うべきで、情勢が悪ければ領内で決戦して、負ければ討ち死にするまでだ。篭城しても餓死を待つだけである」といい、こうした中で家臣の大切さを語り、「人は石垣人は堀」の古歌はまことだと、家臣に述べる。

この政宗の逸話から、信玄の歌ではないことは確かだが、信玄の人間性や性格を最もよく物語る歌といえよう。

 

武田信玄の病気と最期

武田信玄の名言その4

葬儀は無用である。我が遺骸は諏訪の湖へ具足を着せて、3年後の命日に沈めよ

武田信玄が足利将軍義昭の求めに応じて、織田信長を討つため、甲府を発って西上の途についたのは、元亀三年の十月三日だった。

そして遠江の三方ケ原において、徳川家康軍と織田信長軍を圧倒的な強さで打ち破って、三河の野田城に進んだ。

時に信玄は甲府を発つ前から体調が悪く、野田城を攻略した後、重症に陥った。

一説に、野田城攻撃中に鉄砲で狙撃され、弾があたったためともいわれる。

しかし胃がん、もしくは肺結核といった病気で亡くなったともされている。

長篠城で一カ月以上滞在して回復を待ったが、病状は悪化するばかりで、ついに帰路についた。

しかしついに最期が訪れ、天竜川右岸の三州街道の宿場、駒場(長野県阿智村)で天正元年四月十二日、五十三歳の生涯を閉じる。

信玄の夢は、瀬田川を越えて、天下に「風林火山」の旗を立て、号令することであった。

そして諏訪湖埋葬の伝説が残るのである。

武田信玄の最期に関しては、病気説と狙撃など、様々な説が捉えられていますが、今なお真相は謎のままであるといえるでしょう。

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