上杉謙信の名言で分かる人柄や性格5選


上杉謙信といえば、戦国最強と言われることが多く、これはゲームなどでも非常に能力が高く評価されていることからも、世間的には上杉謙信は非常に有能な大名であるとされています。

歴史を勉強してみると、確かに上杉謙信が収めてきた功績は素晴らしいものがありますが、戦の鬼=人格は最低という固定概念を抱いている人も、少なからず存在するのではないでしょうか。

今回の記事では、そんな上杉謙信の上杉謙信の名言で分かる人柄や性格を5選にまとめ、名言から人格や性格を読み解いていきます。

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①名言と人柄や性格

われは兵をもって雌雄を戦いで決せん。塩をもって敵を苦しめるととはせぬ。

「敵に塩を送る」ということわざがある。

敵が苦しんでいる時に、かえってその苦境を救ってやるという意味だが、それは『武将感状記』の上杉謙信の故事からきている。

謙信は十四歳にして、病弱で武将の器量にも欠けた兄晴景を助けて、初陣ながら近隣の敵を打ち破った。

これ以降、勇猛果敢にして、天性の軍事的才能を有し、権謀術数にも長けて、越後の虎と恐れられていました。

また、上杉謙信の性格や人柄がよく分かる1つのシーンは、信玄の子の勝頼が長篠の戦いで敗れた時、この虚を突いて、信濃に攻め込むように家臣が進言したが、謙信は「今攻めれば甲斐までも奪えるだろうが、人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」といって、ついに武田の領国に出兵しなかった。

出典:敵に塩を送る

ここからも、謙信は正義の武将であり、非常に男らく頼りがいがある人柄や性格であるといえるでしょう。

また上杉謙信が最強であると噂される原因の1つが、この14にして初陣ながら近隣の敵を打ち破ったことにあり、非常に権謀術数(人を欺く)戦術が得意であったので、相手は上杉謙信の戦術に恐れをなしていました。

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②名言と人柄や性格

われを毘沙門天と思え。

上杉謙信は自らを見沙門天の化身だと思っていた。

仏教の宇宙観では、世界の中心に須弥山があり、その宮殿には帝釈天がおり、四方を守る四天王の一つである毘沙門天は、北を守備する武神であった。

『北越軍記』によれば、彼は「我が命のある限り、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜わるべし」と毘沙門天に祈った。

謙信はこの願いを成就させるため、烏魚の肉を断り、また女性と交わることを自ら禁じた。

恋慕の情を断つだけでなく、侍女さえもそばに近づけなかった。

謙信は女だったという小説などがあるが、その出所はこんなところにあるのかもしれない。

いずれにしろ、人々は謙信を武神そのものと思い、本人自身も毘沙門天と思う。

彼は出撃前に毘沙門堂に寵り、座禅膜想し、「毘」の一字を旗印に掲げて出撃した。

出典:我を毘沙門天と思え

ここから分かる上杉謙信の人柄や性格は、とにかく仏教を信じていて、女遊びは決してしなかったということが分かります。

侍女というのは、簡単に言えばお金持ちに仕えてお世話をしてくれる人でありますが、侍女すら近づけなかったお言うことは、上杉謙信は毘沙門天への誓いを果たすために、自分を鬼にしてまで女性を避けていたことが分かります。

 

③名言と人柄や性格

武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ戒は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。

官頭の「刃は己の心と考え」よという謙信の言葉は、沢庵和尚が説いた、剣の究極の境地は禅の無念夢想の境地と閉じとする「剣禅一如」の思想に通じる。

謙信は七歳で父為景を失った葬儀に、周囲の不穏な空気から、甲胃をまとって参列し、十代にして戦乱の火中に身を投じた。

その経験を踏まえて「武士の子は、十四、五歳の頃までは、わがままであっても勇気を育て、臆する気持ちを持たせぬようにせよ。勇気のある父を持つ子は臆する心を持たぬ。父は常々、この道を説き諭すことが大事である。少年時代の養育が一番重要である」と言っている。

また「弓矢の道に携わる者は、それぞれのことに義の道がなければ、武士としての法は立たない。主人に非ある時は我が身をかえりみず意見をすることが義である。己の根気が続く限り諌め、用いられねば、家を去ってもよい。戦場では潔い死を心掛けるのが義の頂上である。誰でも死を望む者はいないが、日ごろ恩禄を受けていることは、ひたすら命に代わるものと観念し、あらかじめ無き身と考えることが義の本である。戦場にあって逃げるのは不義の至極で武士の操ではない。盗賊の徒である」と、謙信は自分に厳しい武将だっただけに、家臣にもその厳しさを求めた。

ここから分かる上杉謙信の人柄や性格は、十代にして戦乱の火中に身を投じた勇敢な男であること、そして戦場で自分も戦場で死ぬ覚悟で戦っているのだから、お前たち家来も同じ気持ちで戦場に迎えという、戦意高揚が上手であったこともここから分かります。

こういった要素を含めても、上杉謙信は天才であるといえるでしょう。

 

④名言と人柄や性格

昨日三目、信州犀川を越えて川中島に馬を立てた。武田信玄が向かって来れば、一戦を遂げるつもりでいる。いろいろ謀をめぐらしているが、今においても陣所を確かめえない。今度こそは信濃一国を一変させる覚悟である。

世に名高い上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いは、天文二十二年(一五五三)を最初にして永禄七年(一五六四)まで、都合五度戦われた。

佐竹義重への手紙は、この最後の戦いとなった永禄七年八月四日に、川中島から発せられた手紙である。

この戦いで、信玄の弟の信繁、軍師の山本勘助が討ち死にするなど、前半は信玄の負け戦だったが、妻女山の奇襲に失敗した部隊が参戦した後半は、謙信軍が押されて死傷者を増し、全体では引き分けだったとされる。

なお文中、謙信は勝ち戦といっている。

「去る十日、信州川中島において、武田信玄に対し一戦を遂げた時、粉骨比類なき働きをした。ことに親類、家来など手飼いの者が数多く討たれながら、一心に戦い、凶徒数千人を討ち取り、大勝利を得て、年来の希望がかなった。これはそなたたちの名誉であり、この忠功を謙信は一生忘れない。いよいよ武を磨いて、忠節を尽ミされることが肝要である」

感状といえば普通は無味乾燥な文面だが、この感状には謙信の心がこもって、温か味がある。

つまり上杉謙信の人格や性格は、決して冷たい心を持った人では無く、家来に感謝の気持ちを持つことができる大名であったということが分かります。

 

⑤名言と人格や性格

心に気にかかる物のない時は、心は広く体も安らかである。

謙信は幼い時は彪和仲と呼ばれ、観音を深く信仰する母応御前から仏の功徳をいつも説いて聞かされた。

その一方、城攻めの模型をおもちゃにして遊んだとされ、英雄謙信としての未来像を幼い虎千代に、すでに見出すことができるのだ。

七歳の時に父長尾為景の死に道遇し、書提寺だった林泉寺の天室光育に預けられ、はっきりしないが、謙信には三人の兄がいたとされ、謙信は本来なら林泉寺の僧として人生をまっとうしたはずだった。

しかし運命は彼を戦国の武将へと引きずり出したが、寺で学んだ精神は武将となっても消えなかった。

謙信は子供の時から思ったことを隠さずいう、真っ直ぐな性格で、その性格が、厳しい禅院の座禅を主体とする修行で磨かれる。

北条氏康は「武田信玄と織田信長は表裏があって頼むに足りない。ただ謙信のみたがは、請け合った上は、骨になるまでも義理を違えない。謙信の肌着を分けて、若い武将の守り袋にさせたく思う。われがもし明日にでも死んだら、後を頼むべきは謙信である」といっている。

ここから分かることは、謙信の家訓には、潔癖な倫理観と、氏康をしてそういわしめた精神がみなぎっており、真っ直ぐな性格であったということが分かる。

 

⑥名言と人格や性格

四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒

四十九年の我が生涯は、ひと眠りの夢に過ぎない。この世の栄華も一盃の酒と同じである。

上杉謙信は天正六年(一五七人)の三月十三日、四十九年の生涯を春日山城(新潟県上越市)で閉じた。

これは謙信の辞世の句である。

謙信は武田信玄に塩を送って、戦いは正々堂々とすると述べた。

その信玄は謙信より五年前に亡くなった。

その知らせを謙信が受けた時、「とても残念である。名大将を死なせてしまった。英雄人傑とはこの信玄を言うなり」と惜しんで涙を流し、三日の間、音楽を禁じた。

老臣たちがこの虚に乗じて、信濃国に出陣を促したが、「若き勝頼の代替わりを目がけて攻めるのは大人げない」と、これを許さなかった。

また勝頼が織田信長に長篠の戦いで敗れた時も「今出陣すれば、甲斐までも奪えよう。だが人の落ち目につけ込んで攻めるのは本意ではない」として、勝頼の領国へ侵略しなかった。

一方の信玄も死に際、勝頼に「謙信は義理がたい武士なので、必ず和睦し、これを頼れ」と言い残した。

ここから分かる謙信の人格や性格は、とにかく義理堅く、真面目な人間であったということです。

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